第十一章
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんていえばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。
八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう少し待ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。
いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ順番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったからだ。
「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったい?あなたこれでも三週間の音信不通だったのよ。どこにいて何をしてるのよ?」
「わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」
「言うことはそれだけなの?」
「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭を剃った。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがってきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。
僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめてきた火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。そしてウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができずにいた。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のできごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその体に触れることができるように気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。
僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバースデー?ケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょう?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。
ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。僕はそれを受けとって十何ヶ月かぶりに吸った。どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。母が死んだからだと僕は殆んど反射的に嘘をついた。それで哀しくてたまらなくて旅をつづけているのだ、と。彼は心から同情してくれた。そして家から一升瓶とグラスをふたつ持ってきてくれた。
風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で母親をなくしたとその漁師は言った。体がそんなに丈夫ではなかったのに朝から晩まで働きづめで、それで身をすり減らすように死んだ、と彼は話した。僕はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。それはひどく遠い世界の話であるように僕には感じられた。それがいったいなんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆けられた。お前の母親がなんだっていうんだ?俺は直子を失ったんだ!あれはど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ?
でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じて、際限のない漁師の話を聞くともなくぼんやりと聞いていた。やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。食べてないけれど、リュックの中にパンとチーズとトマトとチョコレートが入っていると僕は答えた。昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチーズとトマトとチョコレートだと僕は答えた。すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。僕は止めようとしたけれど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてしまった。
僕は仕方なく一人でコップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙屑が一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。やせこけた犬が尾を振りながらやてきて何か食べものはないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。
三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持って戻ってきた。これ食えよ、と彼は言った。下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。彼は一升瓶の酒を自分のグラスに注ぎ、僕のグラスにも注いた。僕は礼を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。それからまた二人で酒を飲んだ。もうこれ以上飲めないというところまで飲んでしまうと、彼は自分の家に来て泊まれと僕に言ったが、ここで一人で寝ている方がいいと言うと、それ以上は誘わなかった。そして別れ際にポケットから四つに折った五千円札を出して僕のシャツのポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから、と言った。もう十分よくしてもらったし、これ以上金までもらうわけにはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうとはしなかった。仕方なく礼を言って僕はそれを受け取った。
漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たガール?フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひどいことをしてしまったかと思って、どうしようもなく冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思い、そしてどう傷つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今まで彼女のことなんてロクに思い出しもしなかったのだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優しさをごくあたり前のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼女は今何をしているだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。
ひどく気分がわるくなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。飲み過ぎた酒のせいで頭が痛み、漁師に嘘をついて金までもらったことで嫌な気持になった。そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと僕は思った。いつまでもいつまでも永遠にこんなことつづけているわけにはいかないのだ。僕は寝袋を丸めてリュックの中にしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。彼は時刻表を調べ、夜行をうまくのりつげば朝に大阪に着けるし、そこから新幹線で東京に行けると教えてくれた。僕は礼を言って、男からもらった五千円札で東京までの切符を買った。列車を待つあいだ、僕は新聞を買って日付を見てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ちょうど一ヶ月旅行をつづけていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。
一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ月前とあまり変りない状態で東京に戻った。緑に電話をかけることすらできなかった。いったい彼女にどう切り出せばいいのかがわからなかった。なんて言えばいいのだ?全ては終わったよ、君と二人で幸せになろ――そう言えばいいのだろうか?もちろん僕にはそんなことは言えなかった。しかしどんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。
僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、一人で部屋の中に閉じこもって何日かを過ごした。僕の記憶の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。僕が直子のためにとって置いたいくつかの部屋の鎧戸を下ろされ、家具は白い布に覆われ窓枠にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一日の多くの部分をそんな部屋の中で過ごした。そして僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館でね、俺は自身のためにそこの管理人をしているんだ。
*
東京に戻って四日目にレイコさんからの手紙が届いた。封筒には速達切手が貼ってあった。手紙の内容は至極簡単なものだった。あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配している。電話をかけてほしい。朝の九時と夜の九時にこの電話番号の前で待っている。
僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレイコさんが出た。
「元気?」と彼女が訊いた。
「まずまずですね」と僕は言った。
「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」
「会いに来るって、東京に来るんですか?」
「ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」
「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?」
「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。「そろそろ出てもいい頃よ。だってもう八年もいたんだもの。これ以上いたら腐っちゃうわよ」
僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。
「あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来てくれる?私の顔はまだ覚えてる?それとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら?」
「まさか」と僕は言った。「あさっての三時二十分に東京駅に迎えに行きます」
「すぐわかるわよ。ギター?ケース持った中年女なんてそんなにいないから」
たしかに僕は東京駅ですぐレイコさんをみつけることができた。彼女は男もののツイードのジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、髪をあいかわらず短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手は黒いギター?ケースを下げていた。彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。レイコさんの顔を見ると僕も自然に微笑んでしまった。僕は彼女の旅行鞄を持って中央線の乗り場まで並んで歩いた。
「ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してる?それとも東京では最近そういうひどい顔がはやってるの?」
「しばらく旅行してたせいですよ。あまりロクなもの食べなかったから」と僕は言った。「新幹線はどうでした?」
「あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おうと思ってたのにひどい目にあっちゃった」
「中で何か売りに来るでしょう?」
「あのまずくて高いサンドイッチのこと?あんなもの飢え死にしかけた馬だって残すわよ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べたのが好きだったの」
「そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ」
「いいわよ、私年寄りだもの」とレイコさんは言った。
吉祥寺まで行く電車の中で、彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍しそうにじっと眺めていた。
「八年もたつと風景も違っているものですか?」と僕は訊いた。
「ねえワタナベ君。私が今どんな気持かわかんないでしょう?」
「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないのよ。一人でこんなところに放り出されて」とレイコさんは言った。「でも<気が狂いそう>って素敵な表現だと思わない?」
僕は笑って彼女の手を握った。「でも大丈夫ですよ。レイコさんはもう全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの」
「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」とレイコさんは言った。「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話しあう必要があったの。だからあそこを出てきちゃったのよ。もし何もなければ、私は一生あそこにいることになったんじゃないかしら」
僕は肯いた。
「これから先どうするんですか、レイコさん?」
「旭川に行くのよ。ねえ旭川よ!」と彼女は言った。「音大のとき仲の良かった友だちが旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって二、三年前から誘われてたんだけど、寒いところ行くの嫌だからって断ってたの。だってそうでしょ、やっと自由の身になって、行く先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」
「そんなひどくないですよ」僕は笑った。「一度行ったことあるけれど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね」
「本当?」
「うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと」
「まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし」と彼女は言った。「ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?」
「もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですか?その前に少し東京にいるでしょう?」
「うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに厄介になっていいかしら?迷惑かけないから」
「全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます」
「悪いわね」
「いいですよ。すごく広い押入れなんです」
レイコさんは脚のあいだにはさんだギター?ケースを指で軽く叩いてリズムをとっていた。「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。まだ外の世界に全然馴染んでないから。かわらないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。そういうの少し助けてくれる?私、あなたしか頼れる人いないから」
「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」と僕は言った。
「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?」
「僕のいったい何を邪魔しているんですか?」
レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそれ以上何も言わなかった。
吉祥寺で電車を降り、バスに乗って僕の部屋に行くまで、我々はあまりたいした話をしなかった。東京の街の様子が変ってしまったことや、彼女の音大時代の話や、僕が旭川に行ったときのことなんかをぽつぽつと話しただけだった。直子に関する話は一切出なかった。僕がレイコさんに会うのは十ヶ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるという気がした。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。レイコさんはしばらく一人で話していたが、僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、そのまま二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜けるように高かった。また秋が来たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょっとした音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。
「こういうところに来るとホッとするわね」バスを降り、あたりを見まわしてレイコさんは言った。
「何もないところですからね」と僕は言った。
僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレイコさんはいろんなものに感心してくれた。
「すごく良いところじゃない」と彼女は言った。「これみんなあなたが作ったの?こういう棚やら机やら?」
「そうですよ」と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。
「けっこう器用なのね、ワタナベ君。部屋もずいぶんきれいだし」
「突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから。でもおかげで大家さんは喜んでますよ。きれいに使ってくれるって」
「あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね」とレイコさんは言った。「大家さんお庭の向うに住んでるでしょ?」
「挨拶?挨拶なんてするんですか?」
「あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこんでギターを弾いたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ?こういうのは先にきちんとしといた方がいいの。そのために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」
「ずいぶん気がきくんですねえ」と僕は感心して言った。
「年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話をあわせといてよ。でもアレね、こういう時、年が離れてると楽だわね。誰も変な風に疑わないから」
彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側に座ってもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。レイコさんは二十分くらい戻ってこなかった。彼女は戻ってくると旅行鞄から煎餅の缶を出して僕へのおみやげだと言った。
「二十分もいったい何話してたんですか?」と僕は煎餅をかじりながら訊いてみた。
「そりゃもちろんあなたのことよ」と彼女は猫を抱きあげ頬ずりして言った。「きちんとしてるし、真面目な学生だって感心してたわよ」
「僕のことですか?」
「そうよ、もちろんあなたのことよ」とレイコさんは笑って言った。そして僕のギターをみつけて手にとり、少し調弦してからカルロス?ジョビンの『デサフィナード』を弾いた。彼女のギターを聴くのは久しぶりだったが、それは前と同じように僕の心をあたためてくれた。
「あなたギター練習してるの」
「納屋に転がってたのを借りてきて少し弾いてるだけです」
「じゃ、あとで無料レッスンしてあげるわね」とレイコさんは言ってギターを置き、ツイードの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、煙草を吸った。彼女は上着の下にマドラス?チェックの半袖のシャツを着ていた。
「ねえ、これこれ素敵なシャツでしょう?」とレイコさんが言った。
「そうですね」と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のシャツだった。
「これ、直子のなのよ」とレイコさんは言った。「知ってる?直子と私って洋服のサイズ殆んど一緒だったのよ。とくにあそこに入った頃はね。そのあとであの子少し肉がついちゃてサイズが変わったけれど、それでもだいたい同じって言ってもいいくらいだったのよ。シャツもズボンも靴も帽子も。ブラジャーくらいじゃないかしら、サイズが違うのは。私なんかおっばいないも同然だから。だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。というか殆んど二人で共有してたようなものね」
僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。そう言われてみればたしかに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせいで、レイコの方が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意外にがっしりとしているようでもあった。
「このズボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子のものを身につけてるの見るの嫌?」
「そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている方が嬉しいと思いますね。とくにレイコさんに」
「不思議なのよ」とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らした。「直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。変な子だと思わない?自分がこれから死のうと思ってるときにどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」
「何もなかったのかもしれませんよ」
レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。「ねえ、あなた、最初からひとつ話を聞きたいでしょう?」
「話して下さい」と僕は言った。
「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろうってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移ることになったの。そこまではたしか手紙に書いたわよね。たしか八月の十日前後に出したと思ったけど」
「その手紙は読みました」
「八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろかと言うの。自分で荷物も整理したいし、私とも当分会えないから一度ゆっくり話もしたいし、できたら一泊くらいできないかっていうことなの。私の方は全然かまいませよって言ったの。私も直子にはすごく会いたかったし、話したかったし。それで翌日の二十五日に彼女はお母さんと二人でタクシーに乗ってやってきたの。そして私たち三人で荷物の整理をしたわけ。いろいろ世間話をしながら。夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さんはタクシーを呼んでもらって帰っていったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのとき全然気にもしなかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配してたのよ。彼女はすごく落ちこんでがっくりしてやつれてるんじゃないかなって。だてああいう病院の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるからね、それで大丈夫かなあって心配してたわけ。でも私ひと目見て、ああこれならいいやって思ったの。顔つきも思ったより健康そうだったし、にこにこして冗談なんかも言ってたし、しゃべり方も前よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし、まあこれならお母さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思ったわけ。ねえレイコさん、私この際だから病院できちんと全部なおしゃおうと思うのっていうから、そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。それで私たち外を二人で散歩していろんなお話をしたの。これからどうするだの、そんないろんな話ね。彼女こんなこと言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」
「レイコさんと二人でですか?」
「そうよ」とレイコさんは言って肩を小さくすぼめた。「それで私言ったのよ。私はべつにかまわないけど、ワタナベ君のこといいのって。すると彼女こう言ったの、『あの人のことは私きちんとするから』って。それだけ。そして私と二人でどこに住もうだの、どんなことしようだのといったようなこと話したの。それから鳥小屋に行って鳥と遊んで」
僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。レイコさんはまた煙草に火をつけ、猫は彼女の膝の上でぐっすりと眠りこんでいた。
「あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になってたのよね。それから部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いたの。日記がわりしていたノートだとか手紙だとか、そういうのみんな。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃったの。まあ筋はとおってるじゃない、それなりに。そしてこの子も元気になって幸せになれるといいのにな、と思ったの。だってその日直子は本当に可愛いかったのよ。あなたに見せたいくらい。
それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂入って、それからとっておきの上等のワインあけて二人で飲んで、私がギターを弾いたの。例によってビートルス。『ノルウェイの森』とか『ミシェル』とか、あの子の好きなやつ。そして私たちけっこう気持良くなっって、電気消して、適当に服脱いで、ベットに寝転んでたの。すごく暑い夜でね、窓を開けてても風なんて殆んど入ってきやしないの。外はもう墨で塗りつぶされたみたいに真っ暗でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。部屋の中までムっとする夏草の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が始めたの。あなたとのセックスの話よ。それもものすごくくわしく話すの。どんな風に服を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分がどんな風に濡れて、どんな風に入れられて、それがどれくらい素敵だったかっていうようなことを実に克明に私にしゃべるわけ。それで私、ねえ、どうして今になってそんな話するのよ、急にって訊いたの。だってそれまであの子、セックスのことってそんなにあからさまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みたいなことでセックスのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしいことは絶対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急にべらべらしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ、そりゃ。『ただなんとなく話したくなったの』って直子は言ったわ。『べつにレイコさんが聞きたくないならもう話さないけど』
『いいわよ、話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいなさいよ。聞いてあげるから』って私は言ったの。
『彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらいだったの』って直子が言ったわ。『私始めてだったし。濡れてたからするっと入ったことは入ったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方まで入れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げさせて、もっと奥まで入れちゃったの。するとね、体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけられみたいに。手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、私の体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれたの、長いあいだ。するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始めて……ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らしいのよ。頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ』
『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじないの?』って私言ったの。
『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』
もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性には起こりがちなことで、年を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。それに一度うまく行ったんだもの心配することないわよ。私だって結婚した当初はいろいろとうまくいかないで大変だったのよって。
『そうじゃないの』と直子は言ったわ。『私何も心配してないのよ、レイコさん。私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの』」
僕はビールを飲んでしまい、レイコさんは二本目の煙草を吸ってしまった。猫がレイコさんの膝の上でのびをし、姿勢をかえてからまた眠ってしまった。レイコさんは少し迷っていたが三本目をくわえて火をつけた。
「それから直子はしくしく泣き出したの」とレイコさんは言った。「私は彼女のベットに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからって言ったの。あなたみたいに若くてきれいな女の子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけないわよって。暑い夜で直子は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れてたんで、私はバスタオル持ってきて、あの子の顔やら体やらを拭いてあげたの。パンツまでぐっしょりだたから、あなたちょっと脱いじゃなさいよって脱がせて……ねえ、変なんじゃないのよ。だって私たちずっと一緒にお風呂だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし」
「わかってますよ、それは」と僕は言った。
「抱いてほしいって直子は言ったの。こんな暑いのに抱けやしないわよって言ったんけど、これでもう最後だからって言うんだで抱いたの。体をバスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにして、しばらく。そして落ちついてきたらまた汗を拭いて、寝巻を着せて、寝かしつけたの。すぐにぐっすり寝ちゃったわ。あるいは寝たふりしたのかもしれないけど。でもまあどっちにしても、すごく可愛い顔してたわよ。なんだか生まれてこのかた一度も傷ついたことのない十三か十四の女の子みたいな顔してね。それを見てから私も眠ったの、安心して。
六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻を脱ぎ捨ててあって、服と運動靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくなってたの。まずいなって私そのとき思ったわよ。だってそうでしょ、懐中電灯持って出てったってことは暗いうちにここを出ていったっていうことですものね。そして念のために机の上なんかを見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。それで私すぐみんなのところに行って手わけして直子を探してって言ったの。そして全員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに五時間かかったわよ。あの子、自分でちゃんとロープまで用意してもってきていたのよ」
レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。
「お茶飲みますか?」と僕は訊いてみた。
「ありがとう」と彼女は言った。
僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近く、日の光ずいぶん弱くなり、木々の影が長く我々の足もとにまでのびていた。僕はお茶を飲みながら、山吹やらつつじやら南天やらを思いつきで出鱈目に散らばしたような奇妙に雑然とした庭を眺めていた。
「それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私は警官にいろいろと事情を訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊かないわよ。一応遺書らしき書き置きはあるし、自殺だってことははっきりしてるし、それあの人たち、精神病の患者なんだから自殺くらいするだろうって思ってるのよ。だからひととおり形式的に訊くだけなの。警察が帰ってしまうと私すぐ電報打ったの、あなたに」
「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりして、人も少なくて。家の人は僕が直子の死んだことどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじやなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」
「ねえワタナベ君、散歩しない?」とレイコさんが言った。「晩ごはんの買物でも行きましょうよ。私おなか減ったきちゃったわ」
「いいですよ、何か食べたいものありますか?」
「すき焼き」と彼女は言った。「だって私、鍋ものなんて何年も何年も食べてないんだもの。すき焼きなんて夢にまで見ちゃったわよ。肉とネギと糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入って、ぐつぐつと――」
「それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちには」
「大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてくるから」
彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とガスこんろと長いゴム?ホースを借りてきた。
「どう?たいしたもんでしょう」
「まったく」と僕は感心して言った。
我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、酒屋で比較的まともそうな白ワインを買った。僕は自分で払うと主張したが、彼女が結局全部払った。
「甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑いものだわよ」とレイコさんは言った。「それに私けっこうちゃんとお金持ってるのよ。だがら心配しないでいいの。いくらなんでも無一文で出てきたりはしないわよ」
家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム?ホースをひっぱって縁側ですき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイコさんハギター?ケースから自分のギターをとりだし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるようにゆっくりとバッハのフーガを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾いたり、ぶっきら棒に弾いたり、センチメンタルに弾いたりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに耳を澄ませていた。ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレスを眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきらとして、口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりした。曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをしていた。
「話しかけていいですか?」と僕は訊いた。
「いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから」とレイコさんは言った。
「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京にいるでしょう?」
「横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人たち、もう私とは関りあわない方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会っったで辛くなるし。会わないのがいちばんよ」
彼女は空になったセブンスターの箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい箱をとりだし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。
「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」
「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが何であろうがね。そしてこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レイコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」
レイコさんはにっこり笑って、ライターで煙草に火をつけた。「あなた年のわりに女の人の喜ばせ方よく知っているのね」
僕は少し赤くなった。「僕はただ思っていること正直に言ってるだけですよ」
「わかってるわよ」とレイコさんは笑って言った。
そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始めた。
「これ、夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。
「百パーセントの現実のすき焼ですね。経験的に言って」と僕は言った。
我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼をつつき、ビールを飲み、そしてごはんを食べた。かもめが匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。腹いっぱいになるとと、僕らは二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。
「満足しましたか、これで?」と僕は訊いた。
「とても。申しぶんなく」とレイコさんは苦しそうに答えた。「私こんなに食べたのはじめてよ」
「これからどうします?」
「一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐしゃで洗いたいのよ」
「いいですよ、すぐ近くにありますから」と僕は言った。
「ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女の子ともう寝たの?」とレイコさんが訊いた。
「セックスしたかっていうことですか?してませんよ。いろんなことがきちんとするまではやらないって決めたんです」
「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」
僕はよくわからないというように首を振った。「直子が死んじゃったから物事は落ちつくべきところに落ちついちゃったってこと?」
「そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。直子は死ぬことを選んだのよ。あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうしないと何もかも駄目になっちゃわよ」
「でも忘れられないですよ」と僕は言った。「僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。これは誰のせいだとか誰のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕自身の問題なんです。たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。直子はやはり死を選んだだろうと思います。でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんです」
「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまできたのよ。はるばるあんた棺桶みたいな電車に乗って」
「レイコさんの言ってることはよくわかりますよ」と僕は言った。「でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」
レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。私もあなたも」
*
僕らは川べりの道を五分ほど歩いて風呂屋に行き、少しさっぱりとした気分で家に戻ってきた。そしてワインの栓を抜き、縁側に座って飲んだ。
「ワタナベ君、グラスもう一個持ってきてくれない?」
「いいですよ。でも何するんですか?」
「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレイコさんは言った。「淋しくないやつさ」
僕はグラスを持ってくると、レイコさんはそれになみなみとワインを注ぎ、庭の灯籠の上に置いた。そして縁側に座り、柱にもたれてギターを抱え、煙草を吸った。
「それからマッチがあったら持ってきてくれる?なるべく大きいのがいいわね」
僕は台所から徳用マッチを持ってきて、彼女のとなりに座った。
「そして私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる?私いまから弾けるだけ弾くから」
彼女はまずヘンリー?マンシーニの『ディア?ハート』をとても綺麗に静かに弾いた。「このレコードあなたが直子にプレゼントしたんでしょう?」
「そうです。一昨年のクリスマスにね。あの子はこの曲がとても好きだったから」
「私も好きよ、これ。とても優しくて」彼女は『ディア?ハート』のメロディーをもう一度何小節か軽く弾いてからワインをすすった。「さて酔払っちゃう前に何曲弾けるかな。ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう?」
レイコさんはビートルズに移り、『ノルウェイの森』を弾き、『イエスタディ』を弾き、『ミシェン?ザ?ヒル』を弾き、『サムシング』を弾き、『ヒア?カムズ?ザ?サン』を唄いながら弾き、『フール?オン?ザ?ヒル』を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。
「七曲」とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」
この人たちというのはもちろんジョン?レノンとボール?マッカートニー、それにジョージ?ハリソンのことだった。
彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって『ペニー?レイン』を弾き、『ブランク?バード』を弾き、『ジュリア』を弾き、『六十四になったら』を弾き、『ノーホエア?マン』を弾き、『アンド?アイ?ラブ?ハー』を弾き、『ヘイ?ジェード』を弾いた。
「これで何曲になった?」
「十四曲」と僕は言った。
「ふう」と彼女はため息をついた。「あなた一曲くらい何か弾けないの?」
「下手ですよ」
「下手でいいのよ」
僕は自分のギターを持ってきて『アップ?オン?ザ?ルーフ』をたどたどしくではあるけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一服してゆっくり煙草を吸い、ワインをすすっていた。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍手した。
それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの『死せる女王のためのバヴァーヌ』とドビッシーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」
そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。『クロース?トゥ?ユー』『雨に濡れても』『ウォーク?オン?バイ』『ウェディングベル?ブルース』。
「二十曲」と僕は言った。
「私ってまるで人間ジューク?ボックスみたいだわ」とレイコさんは楽しそうに言った。「音大のとき先生がこんなのみたらひっくりかえっちゃうわよねえ」
彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。ボサ?ノヴァを十曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾き、ボブ?ディランやらレイ?チャールズやらキャロル?キングやらビーチボーイスやらティービー?ワンダーやら『上を向いて歩こう』やら『ブルー?ベルベット』やら『グリーン?フールズ』やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、メロディーにあわせてハミングしたりした。
ワインがなくなると、我々はウィスキーを飲んだ。僕は庭のグラスの中のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。
「今これで何曲かしら?」
「四十八」と僕は言った。
レイコさんは四十九曲目に『エリナ?リグビー』を弾き、五十曲目にもう一度『ノルウェイの森』を弾いた。五十曲弾いてしまうとレイコさんは手を休め、ウィスキーを飲んだ。「これくらいやれば十分じゃないあしら?」
「十分です」と僕は言った。「たいしたもんです」
「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。「このお葬式のことだけを覚えていなさい。素敵だったでしょう?」
僕は肯いた。
「おまけ」とレイコさんは言った。そして五十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた。
「ねえワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終わったあとでレイコが小さな声で言った。
「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えてたんです」
カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあたり前のことのように抱きあい、お互いの体を求めあった。僕は彼女のシャツを脱がせ、下着をとった。
「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の子にパンツ脱がされることになると思いもしなかったわね」とレイコさんは言った。
「じゃあ自分で脱ぎますか?」と僕は言った。
「いいわよ、脱がせて」と彼女は言った。「でも私しわだらけだからがっかりしないでよ」
「僕、レイコさんのしわ好きですよ」
「泣けるわね」とレイコさんは小さな声で言った。
僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。そして少女のような薄い乳房に手をあて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴァギナに指をあててゆっくりと動かした。
「ねえ、ワタナベ君」とレイコさんが僕の耳もとで言った。「そこ違うわよ。それただのしわよ」
「こういうときにも冗談しか言えないんですか?」と僕はあきれて言った。
「ごめんなさい」とレイコさんは言った。「怖いのよ、私。もうずっとこれやってないから。なんだか十七の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ」
「ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」
僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に入った。
「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?」とレイコさんは小さな声で僕に訊いた。「この年で妊娠すると恥かしいから」
「大丈夫ですよ。安心して」と僕は言った。
ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は彼女の背中をやさしくさするように撫でながらペニスを何度か動かして、そして何の予兆もなく突然射精した。それは押しとどめようのない激しい射精だった。僕は彼女にしがみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。
「すみません。我慢できなかったんです」と僕は言った。
「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレイコさんは僕のお尻を叩きながら言った。「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの?」
「まあ、そうですね」
「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさい。好きなときに好きなだけ出しなさいね。どう、気持良かった?」
「すごく。だから我慢できなかったんです」
「我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、。私もすごく良かったわよ」
「ねえ、レイコさん」と僕は言った。
「なあに?」
「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らしいのにもったいないという気がしますね」
「そうねえ、考えておくわ、それ」とレイコさんは言った。「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」
僕は少し後でもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。レイコさんは僕の下で息を呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かにペニスを動かしながら、二人でいろんな話をした。彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。僕が冗談を言って彼女がすくすく笑うと、その震動がペニスにつたわってきた。僕らは長いあいだずっとそのまま抱きあっていた。
「こうしてるのってすごく気持良い」とレイコさんは言った。
「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。
「ちょっとやってみて、それ」
僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味わい、味わい尽くしたところで射精した。
結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさんは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。
「私もう一生これやんなくていいわよね?」とレイコさんは言った。「ねえ、そう言ってよ、お願い。残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」
「誰にそんなことがわかるんですか?」と僕は言った。
*
僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車で行くと主張した。
「私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ」と彼女は言った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。彼女はギター?ケースを持ち、二人でプラットフォームのベンチに並んで座って列車が来るのを待っていた。彼女は東京に来たときと同じツイードのジャケットを着て、白いズボンをはいていた。
「旭川って本当にそれほど悪くないと思う?」とレイコさんが訊いた。
「良い町です」と僕は言った。「そのうちに訪ねていきます」
「本当?」
僕は肯いた。「手紙書きます」
「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だったのにね」
「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」
「正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くのが。だから手紙書いてね。あなたの手紙を読むといつもあなたがとなりにいるような気がするの」
「僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。レイコさんならどこにいてもきっとうまくやれますよ」
「それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、これは錯覚かしら?」
「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。レイコさんも笑った。
「私のこと忘れないでね」と彼女は言った。
「忘れませんよ、ずっと」と僕は言った。
「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ」
僕はレイコさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼女に口づけした。まわりを通りすぎる人たちは僕たちのことをじろじろとみていたけれど、僕にはもうそんなことは気にならなかった。我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。
「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」
我々は握手をして別れた。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕がそのあいだガラス窓にずっと押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中で緑を呼びつづけていた。
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