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挪威的森林(ノルウェイの森)

作者:村上春樹   发表时间:2024-11-15 01:15

第十章


  一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。
  時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。ジョン?コルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。
  僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバイトをし、時折『グレート?ギャツピイ』を読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに2DKのアパートを借りて二人で住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパートを借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパートで、緑も小林書店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。
  永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。
  僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。
  大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス?カントリー?スキーをした。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食のテーブルにやってきて「どうして手の中指は人さし指より長く、足の方は逆なのか」について教えてくれた。門番の大村さんはまた東京の豚肉の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていたレコードをとても喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてギターで弾いた。
  秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口をきかないでソファーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。そのぶんレイコさんがしゃべった。「でも気にしないで」と直子は言った。「今こういう時期なの。しゃべるより、あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの」
  レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドで抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターペーションしてた、と。
  「他の誰とも寝なかったの?」と直子が訪ねた。
  「寝なかったよ」と僕は言った。
  「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精をした。
  「覚えていられる?」とそのあとで直子が僕に訊ねた。
  「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。
  「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言った。「寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトすれば生活費の方はなんとかなると思うし。それで、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように」
  「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。
  「ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶんないし、レイコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるにはこの場所はちょっと特殊すぎる。長くいればいるほどここから出にくくなってくると思うんだ」
  直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見えなかった。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあいだにはほんの少しの空間しかあいていなかった。
  「ゆっくり考えればいいよ」と僕は言った。「いずれにせよ僕は三月までには引越すから、君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいいから来ればいいよ」
  直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときのように両腕で直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸で、彼女は小さな白い下着だけを身に着けていた。彼女の体は美しく、どれだけ見ていても見飽きなかった。
  「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
  「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」
  「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」
  「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と僕は言った。
  直子はベッドの上で身を起こして、Tシャツを頭からかぶり、フランネルのシャツを着て、ブルージーンズをはいた。僕も服を着た。
  「ゆっくり考えさせてね」と直子は言った。「それからあなたもゆっくり考えてね」
  「考えるよ」と僕は言った。「それから君のフェラチオすごかったよ」
  直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」
  「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。
  そして我々は台所でテーブルをはさんで、コーヒーを飲みながら昔の話をした。彼女は少しずつキズキの話ができるようになっていた。ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼女は話した。雪は降ったりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三月に来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いコートの上から彼女を抱いて、口づけした。さよなら、と直子が言った。
  *
  一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年末のテストがあって、僕は比較的楽にそれをパスした。他にやることもなくて殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特別な勉強をしなくても試験をパスするくらい簡単なことだった。
  寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動している連中が寮内にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで寮長子飼いの体育会系の学生たちとこぜりあいがあり、二人が怪我をして六人が寮を追い出された。その事件はかなりあとまで尾をひいて、毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっと重苦しい空気が漂っていて、みんながピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体育会系の連中に殴られそうになったが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせよ、この寮を出る頃合だった。
  試験が一段落すると僕は真剣にアパートを探しはじめた。そして一週間かけてやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいささか悪かったが、ありがたいことには一軒家だった。まあ掘りだしものと言ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか庭番小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあいだにはかなり荒れた庭が広がっていた。家主は表口を使い、僕は裏口を使うからプライヴァシーを守ることもできた。一部屋と小さなキッチンと便所、それに常識ではちょっと考えられないくらい広い押入れがついていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかしたら孫が東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくのは条件で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の好さそうな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさいと言ってくれた。
  引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラックを借りてきて僕の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫とTVと大型の魔法瓶をプレゼントしてくれた。僕にとってはありがたいプレゼントだった。その二日後に彼も寮を出て三田のアパートに引越すことになっていた。
  「まあ当分会うこともないと思うけど元気でな」と別れ際に彼は言った。「でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がするんだ」
  「楽しみにしてますよ」と僕は言った。
  「ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方が良かった」
  「同感ですね」と僕は笑って言った。「でも永沢さん、ハツミさんのこと大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやすいから」
  「うん、それは知ってるよ」と彼は肯いた。「だから本当を言えばだな、俺のあとをワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前とハツミならうまくいくと思うし」
  「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。
  「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も
  相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」
  「いいですよ」
  「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
  「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。
  *
  引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくてホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。
  「窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として使われています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めています。いったい何匹いるのかわからないけれど、とにかく沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをしています。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことはあまり気に入らないようですが、古いチーズをおいてやると何匹かは近くに寄ってきておそるおそる食べました。そのうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっくりするくらいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかという気がするくらいです。
  大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講義もずっと少なくなるし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっくり本を読めるからかえって良いかもしれません。あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほどきつくないアルバイトの口を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻ることができます。
  僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何かを新しく始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住むことができるとしたら、それがいちばん良いじゃないかなという気がします。うまくいけば君も大学に復学できるし。一緒に住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにアパートを探すことも可能です。いちばん大事なことは我々がいつもすぐ近くにいることができるということです。もちろんとくに春という季節にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、夏でオーケーです。問題はありません。それについて君がどう思っているか、返事をくれませんか?
  僕はこれから少しまとめてアルバイトをしようかと思っています。引越しの費用を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金がかかります。鍋やら食器やらも買い揃えなくちゃなりませんしね。でも三月になれば暇になるし、是非君に会いに行きたい。都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京都に行こうと思います。君に会えることを楽しみにして返事を待っています」
  それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃え、家で簡単な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って切断してもらい、それで勉強机を作った。食事もとりあえずはそこで食べることにした。棚も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半年くらいの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べるようになった。僕はその猫に「かもめ」という名前をつけた。
  一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイトを見つけ二週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料は良かったが大変な労働だったし、シンナーで頭がくらくらした。仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビールを飲み家に帰って猫と遊び、あとは死んだように眠った。二週間経っても直子からの返事は来なかった。
  僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみれば僕はもう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知らせていなかったのだ。そろそろ引越ししようかと思うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりなのだ。
  僕は公衆電話に入って緑のアパートの番号をまわした。お姉さんらしい人が出て僕が名前を告げると「ちょっと待ってね」と言った。しかしいくら待っても緑は出てこなかった。
  「あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだって」とお姉さんらしい人が言った。「引越すときあなたあの子に何の連絡もしなかったでしょう?行き先も教えずにぷいといなくなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってるのよ。あの子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同じだから」
  「説明するから出してもらえませんか」
  「説明なんか聞きたくないんだって」
  「じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えてもらえませんか、緑さんに」
  「嫌よ、そんなの」とお姉さんらしい人は突き放すように言った。「そういうことは自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ?自分で責任持ってちゃんとやんなさい」
  仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理はないと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い出しもしなかった。僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわりのことが全く目に入らなくなってしまうのだ。
  そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週間も連絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶん僕は傷ついただろう。それもけっこう深く傷ついただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、ある部分ではそれ以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思うとひどく切ない気持になった。他人の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷つけるというのはとても嫌なものだった。
  僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕は自分の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、自分が不注意で無神経であったことを詫びた。君にとても会いたい。新しい家も見に来てほしい。返事を下さい、と書いた。そして速達切手を貼ってポストに入れた。
  しかしどれだけ待っても返事は来なかった。
  奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を待ちつづけていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイトもできなかった。何日頃に会いに来て欲しいという直子からの手紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て二本立ての映画をみたり、ジャズ喫茶で半日、本を読んでいた。誰とも会わなかったし、殆んど誰とも口をきかなかった。そして週に一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事のことには触れなかった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペンキ屋の仕事のことを書き、「かもめ」のことを書き、庭に桃の花のことを書き、親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおばさんのことを書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それでも返事はこなかった。
  本を読んだり、レコードを聴いたりするのに飽きると、僕は少しずつ庭の手入れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを借り、雑草を抜き、ぼうぼうにのびた植込みを適当に刈り揃えた。少し手を入れだだけで庭はけっこうきれいになった。そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませんか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからしばらく保険会社の役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮らしているのだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独立してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだと言った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。
  「いいですね」と僕は言った。
  「よかないよ」と彼は言った。「旅行なんてちっとも面白くないね。仕事してる方がずっと良い」
  庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろくなのがいないからで、本当は自分が少しずつやればいいのだが最近鼻のアレルギーが強くなって草をいじることができないのだということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると彼は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この中にあるのは全部不用品みたいなものだから使いたいものがあったらなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供用プールから野球のバッドまであった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子を二脚と鏡とギターをみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと言った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。
  僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空気を入れ、ギヤを調整し、自転車屋でクラッチ?ワイヤを新しいものにとりかえてもらった。それで自転車は見ちがえるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほこりを落としてからニスを塗りなおした。ギターの弦も全部新しいものに替え、板のはがれそうになっていたところは接着剤でとめた。錆もワイヤ?ブラシできれいに落とし、ねじも調節した。たいしたギターではなかったけれど、一応正確な音は出るようになった。考えて見ればギターを手にしたのなんて高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフターズの『アップ?オン?ザ?ルーフ』を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不思議にまだちゃんと大体のコードを覚えていた。
  それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り名前を書いて戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便物といえば転送されてきた高校のクラス会の通知だけだったし、僕はたとえ何があろうとそんなものにだけは出たくなかった。何故ならそれは僕とキズキのいたクラスだったからだ。僕はそれをすぐに屑かごに放り込んだ。
  四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレイコさんからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあった。僕ははさみできれいに封を切り、縁側に座ってそれを読んだ。最初からあまり良い内容のものではないだろうという予感はあったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。
  はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることができなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほしい、と彼女は書いていた。
  「あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもしれませんが、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったのです。それはわかってあげて下さい。正直に言って今の彼女の状況はあまり好ましいものではありません。彼女はなんとか自分の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結果は出ていません。
  考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回目の訪問までは、こういう症状も比較的軽度のものだったし、私も正直言ってそれほど深刻には考えていませんでした。私たちにはある程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。でもあなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいました。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。
  私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。私はできることならあなたを加えたセッションを行いたいと提案し、医者もそれには賛成したのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝えると『会うときは綺麗な体で彼に会いたいから』というのがその理由です。問題はそんなことではなく一刻も早く回復することなのだと私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変りませんでした。
  前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありません。もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中的な治療をすることは困難です。ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこには含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院ということになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽くしていますし、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を祈っていて下さい。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。
  三月三十一日
  石田玲子      」
  手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると「かもめ」がどこからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。
  何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少なくとも今は何も考えたくはない。
  僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が庭を包んだ。「かもめ」はもうどこかに姿を消したしまっていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてくれないのだ?
  僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。
  それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼はそれを聞きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。
  僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日が過ぎた。
  四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているのだ、いったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接点をうまく見つけることができなかった。どうして「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあいこ」なのだ?何故彼女は僕と「お昼ごはん」を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしくなるつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
  やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上がった。
  僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、買物をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた「かもめ」に餌をやり、ビール以外の酒を飲まず、体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそりとやせてしまったことがわかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他人の顔みたいだった。
  翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べてから、レイコさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どういう風にやっていけばいいのかを腰を据えて考えて見た。レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何か起るかはわからないわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっとうまくやっていけるだろうと。
  しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手紙によってあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直子がもう一度回復するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。
  おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。
  「ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃない、あなた?」
  「そうかな?」と僕は言った。
  「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」
  僕は笑って首を振った。「去年の十月の始めから女と寝たことなんて一度もないよ」
  緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの?本当?」
  「そうだよ」
  「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」
  「大人になったからだよ」と僕は言った。
  緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく顔をしかめて、やがてにっこり笑った。「本当だ。たしかに何か少し変ってるみたい、前に比べて」
  「大人になったからだよ」
  「あなたって最高ね。そういう考え方できるのって」と彼女は感心したように言った。「ごはん食べに行こう。おなか減っちゃったわ」
  我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をすることにした。僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。
  「ねえ、ワタナベ君、怒ってる?」と緑が訊いた。
  「何に対して?」
  「つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そういうのっていけないことだと思う?あなたの方はきちんと謝ってきたのに?」
  「僕の方が悪かったんだから仕方ないさ」と僕は言った。
  「お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容で、あまりにも子供じみてるって」
  「でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?」
  「うん」
  「じゃあそれでいいじゃないか」
  「あなたって本当に寛容なのね」と緑は言った。「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?」
  「してないよ」と僕は言った。
  「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃない?」
  「まあ、そうだろうね」
  「でもやらなかったのね?」
  「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないからね」と僕は言った。
  「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」
  「でも僕のは固くて大きいよ」
  彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってたでしょう?私」
  「うん。たしかに」と僕は言った。
  「そうしてね、もし逆にあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激してるとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけなのよ」
  「わかってるよ」と僕は言った。
  我々はランチを食べながら課目登録のカードを見せあって、二つの講義を共通して登録していることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせることになる。それから彼女は自分の生活のことを話した。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあいだアパート暮しになじめなかった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比べてあまりにも楽だったからだ。自分たちは誰かの看病をしたり、店を手伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れてしまっていたのだ、と緑は言った。
  「でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ」と緑は言った。「これが私たち自身のための本来の生活なんだって。だから誰かに遠慮することもなく思う存分手足をのばせばいいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、三センチ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実の人生として存在するわけないといった気がしていたの。今にどんでん返しがあるに違いないって二人で緊張してたの」
  「苦労性の姉妹なんだね」と僕笑って言った。
  「これまでが過酷すぎたのよ」と緑は言った。「でもいいの。私たち、そのぶんをこれから先でしっかりとり戻してやるの」
  「まあ君たちならやれそうな気がするな」と僕は言った。「お姉さんは毎日何をしてるの?」
  「彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリーのお店始めたんで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートしたり、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」
  彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫のかもめやら家主のことやらを話した。
  「楽しい?」
  「悪くないね」と僕は言った。
  「でもそのわりに元気がないのね」
  「春なのにね」と僕は言った。
  「そして彼女が編んでくれた素敵なセーター着てるのにね」
  僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセーターに目をやった。「どうしてそんなことはわかったのかな?」
  「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあきれたように言った。「でも元気がないのね」
  「元気を出そうとしているんだけれど」
  「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」
  僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」
  「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」
  「まあひとつの哲学ではあるな」
  「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。
  コーヒーを飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店に入ってきて、緑と三人で課目登録カードを見せあい、昨日のドイツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。僕はコーヒーを飲みながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になってきた。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際にはアネモネの花をさした小さなグラスが置いてあった。
  女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテーブルに戻ってしまうと、緑と僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊か買い、また喫茶店に入ってコーヒーを飲み、ゲーム?センターでピンボールをやり、公園のベンチに座って話をした。だいたいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉が乾いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋でコーラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女はレポート用紙にボールペンでこりこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわよと彼女は答えた。
  三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち合わせしてるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。別れ際に緑は僕のコートのポッケトに四つに折ったレポート用紙をつっこんだ。そして家に帰ってから読んでくれと言った。僕はそれを電車の中で読んだ。
  「前略。
  今あなたがコーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としてもはじめてのことです。でもそうでもしないことには私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませんから。だって私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょう?
  ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の髪型が変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?私少しずつ苦労して髪をのばしてやっと先週の終りになんとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あなたそれにすら気がつかなかったでしょう?なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思ったのに、気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですか?どうせあなたが私がどんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。いくら考え事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何してたってどれだけ考えごとしてたって、私あなたのことを許したのに。
  だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせているなんて嘘です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマまで持ってきたんです。そう、私のバッグの中にはパジャマと歯ブラシが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家においでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなたは私のことなんかどうでもよくて一人になりたがってるみたいだから一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを心ゆくまで考えていなさい。
  でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありません。私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもと戻ってしまうみたいです。
  今コーラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いているみたいで、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あなたは今隣りに座ってごくごくとコーラを飲んでいます。コーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変ったんだね』と気がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたらこんな手紙びりびりと破って、『ねえ、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう』って言えたのに。でもあなたは鉄板みたいに無神経です。さよなら。
  P.S.
  この次教室で会っても話かけないで下さい」
  吉祥寺の駅から緑のアパートに電話をかけてみたが誰も出なかった。とくにやることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通いながらやれるアルバイトの口を探してみた。僕は土?日が一日あいていて、月?水?木は夕方の五時から働くことができたが、僕のそんなスケジュールにぱったりと合致する仕事というのはそう簡単に見つからなかった。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするついでにまた緑に電話をかけてみた。お姉さんが電話に出て、緑はまだ帰ってないし、いつ帰るかはちょっとわからないと言った。僕は礼を言って電話を切った。
  夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書けなかったので、結局直子に手紙を書くことにした。
  春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会えなくてとても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、話がしたかった。しかしいずれにせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように思えるからだ、と僕は書いた。
  「それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどうでもいいことかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたときのことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要なことなのです。僕はいつもあのときのことを考えています」
  僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれをじっと眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその方が相手に意がうまく伝わるだろうという気がした。僕はグラスに三センチくらいウィスキーを注ぎ、それをふた口で飲んでから眠った。
  *
  翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトをみつけた。それほど大きくないイタリア料理店のウェイターの仕事で、条件はまずまずだったが、昼食もついたし、交通費も出してくれた。月?水?木の遅番が休みをとるときは――彼らはよく休みをとった――かわりに出勤してくれてかまわないということで、それは僕としても好都合だった。三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週の土曜日から来てほしいとマネージャーが言った。新宿のレコード店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんとしたまともそうな男だった。
  緑のアパートに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと戻ってないし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだろうかと疲れた声で訊いた。僕が知っているのは彼女がバッグにパジャマと歯ブラシを入れていたということだけだった。
  水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色のセーターを着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスをかけていた。そしていちばんうしろの席に座って、前に一度見かけたことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕はそこに行って、あとで話がしたいんだけどと緑に言った。眼鏡をかけた女の子がまず僕を見て、それから緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいスタイルになっていた。いくぶん大人っぽくも見えた。
  「私、約束があるの」と緑は少し首をかしげるようにして言った。
  「そんなに時間とらせない。五分でいいよ」と僕は言った。
  緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メートルくらい向うの崩れかけた廃屋を眺めるときのような目つきだった。「話したくないのよ。悪いけど」
  眼鏡の女の子が<彼女話したくないんだって、悪いけど>という目で僕を見た。
  僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き(テネシー?ウィリアムズの戯曲についての総論。そのアメリカ文学における位置)、講義が終わるとゆっくり三つ数えてからうしろを向いた。緑の姿はもう見えなかった。
  四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわりの人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコートを脱ぎ捨て、明るい日だまりの中でおしゃべりをしたり、キャッチボールをしたり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一人ぼっちだった。直子も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離れていってしまった。そして今の僕には「おはよう」とか「こんにちは」を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさえ僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。何度か緑に話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだった。今話したなくないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言っていることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子といたし、そうでないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の長い男で、いつも白いバスケットボール?シューズをはいていた。
  四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかった。五月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけにはいなかった。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残していた。
  そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。
  アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生と知り合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科にかよっているおとなしい無口な男で話をするようになるまでにずいぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の店でビールを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、僕らはだいたいそんな話をした。伊東はほっそりとしたハンサムな男で、その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジェ?バタイユとポリス?ヴィアンを好んで読み、音楽ではモーツァルトとモーリス?ラヴェルをよく聴いた。そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めていた。
  彼は一度僕を自分のアパートに招待してくれた。井の頭公園の裏手のあるちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパートで、部屋の中は画材やキャンパスでいっぱいだった。絵を見たいと僕は言ったが、恥ずかしいものだからと言って見せてくれなかった。我々は彼が父親のところから黙って持ってきたシーバス?リーガルを飲み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベール?カサドゥシェの弾くモーツァルトのピアノ?コンチェルトを聴いた。
  彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、と言った。
  「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。「二十歳とか二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ。すごく現実的になりはじめるんだ。するとね、これまですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ」
  「どうするんだい?」と僕も訊いてみた。
  彼はししゃもをかじりながら頭を振った。「どうするったって、どうしようもないよ、油絵科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もアブラになんて行かないさ。だってそんなところ出たってまず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って美術の先生になれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなんだよ。やれやれ」
  「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?」
  「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。「それに僕は美術の教師なんかなりたくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわるい中学生に絵を教えて一生を終えたくないんだよ」
  「それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お互いのために」と僕は言った。
  「僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒になる気でいるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せないよ」
  僕らは氷を入れずストレートでシーバスを飲み、ししゃもがなくなってしまうと、キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてかじった。キウリをぽりぽりと食べていると亡くなった緑の父親のことを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほど味気のないものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知らないうちに僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいたのだ。
  「君には恋人いるの?」と伊東が訊いた。
  いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は遠く離れているんだ。
  「でも気持は通じているんだろう?」
  「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。
  彼はモーツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田舎の人々が山道について熟知しているように、モーツァルトの音楽の素晴らしさを熟知していた。父親が好きで三つの時からずっと聴いてるんだと彼は言った。僕はクラシック音楽にそれほど詳しいわけではなかったけれど、彼の「ほら、ここのところが――」とか「どうだい、この――」といった適切で心のこもった説明を聴きながらモーツァルトのコンチェルトに耳を傾いていると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは井の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス?リーガルを最後の一滴まで飲んだ。美味い酒だった。
  伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って断り、ウィスキーの礼を言って九時前に彼のアパートを出た。そして帰りみち電話ボックスに入って緑に電話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。
  「ごめんなさい。今あなたと話したくないの」と緑は言った。
  「それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君との関係を終えたくないんだ。君は本当に数の少ない僕の友だちの一人だし、君に会えないのはすごく辛い。いつになったら君と話せるのかな?それだけでも教えてほしいんだよ」
  「私の方から話しかけるわよ。そのときになったら」
  「元気?」と僕は訊いてみた。
  「なんとか」と彼女は言った。そして電話を切った。
  五月の半ばにレイコさんから手紙が来た。
  「いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読ませてもらっています。いいわよね、読んでも?
  長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私もいささか疲れ気味だったし、良いニュースもあまりなかったからです。直子の具合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。直子もできることならずっとここにいて治したいというし、私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言ってここで彼女をコントロールするのはだんだん困難になってきました。普段はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不安定になることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があり、直子は全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。
  だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるのがいちばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方ありません。前もあなたに言ったように、気長にやるのがいちばんです。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつほぐしていくのです。事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇に慣れるのを待つしかありません。
  この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移っているはずです。連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、いろんなことがばたばたと決まってしまったのです。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良い医者もいます。住所を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって下さい。彼女についての情報は私の方にも入ってきますから、何かあったら知らせるようにします。良いニュースが書けるといいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなくてもときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら」
  *
  その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き、レイコさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き、家の机に向って膝に「かもめ」をのせながら書き、休憩時間にイタリア料理店のテーブルに向って書いた。まるで手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった。
  君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と五月を送った、と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験したのははじめてのことだし、これだったら二月が三回つづいた方がずっとましだ。今更君にこんなことをいっても始まらないとは思うけれど、新しいヘア?スタイルはとてもよく君に似合っている。とても可愛い。今イタリア料理店でアルバイトしていて、コックからおいしいスパゲティーの作り方を習った。そのうちに君に食べさせてあげたい。
  僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアルバイトをし、伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス?ヴィアンを何冊か借りて読み、手紙を書き、「かもめ」と遊び、スパゲティーを作り、庭の手入れをし、直子のことを考えながらマスタペーションをし、沢山の映画を見た。
  緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二ヶ月も口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座って、しばらく頬杖をついて黙っていた。窓の外には雨が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、それは何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教室を出ていなくなっても緑はずっとその格好で黙っていた。そしてジーンズの上着のポッケトからマルボロを出してくわえ、マッチを僕の渡した。僕はマッチをすって煙草に火をつけてやった。緑は唇を丸くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。
  「私のヘア?スタイル好き?」
  「すごく良いよ」
  「どれくらい良い?」と緑が訊いた。
  「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。
  「本当にそう思う?」
  「本当にそう思う」
  彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握った。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の灰を床に落としてからすっと立ち上がった。
  「ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ」と緑は言った。
  「どこに行く?」
  「日本橋の高島屋の食堂」
  「何でまたわざわざそんなところまで行くの?」
  「ときどきあそこに行きたくなるのよ、私」
  それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雨が降りつづいていたせいか、デパートの中はがらんとしてあまり人影がなかった。店内には雨の匂いが漂い、店員たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の食堂に行き、ウィンドの見本を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べることにした。昼食どきだったが、食堂もそれほど混んではいなかった。
  「デパートの食堂で飯食うなんて久しぶりだね」と僕はデパートの食堂でしかまずお目にかかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶を飲みながら言った。
  「私好きよ、こういうの」と緑は言った。「なんだか特別なことをしているような気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパートに連れてってもらうなんてほんのたまにしかなかったから」
  「僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパート行くの好きだったからさ」
  「いいわね」
  「べつに良くもないよ。デパートなんか行くの好きじゃないもの」
  「そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと」
  「まあ一人っ子だからね」
  「大きくなったらデパートの食堂に一人できて食べたいものをいっぱい食べてやろうと思ったの、子供の頃」と緑は言った。「でも空しいものね、一人でこんなところでもそもろごはん食べたって面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでもないし、ただっ広くて混んでてうるさいし、空気はわるいし。それでもときどきここに来たくなるのよ」
  「このニヶ月淋しかったよ」と僕は言った。
  「それ、手紙で読んだわよ」と緑は無表情な声で言った。「とにかくごはん食べましょう。私今それ以外のこと考えられないの」
  我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸い物を飲み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も言わずにすっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち上がって傘を持った。
  「これからどこに行くの?」と僕は訊いてみた。
  「デパートに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まってるでしょう」と緑は言った。
  雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の姿はなく、売店も、乗り物切符売り場もシャッターを閉ざしていた。我々は傘をさしてぐっしょりと濡れた木馬やガーデン?チェアや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見たいというので、僕は硬貨を入れてやり、彼女が見ているあいだずっと傘をさしてやっていた。
  屋上の隅の方に屋根のついたゲーム?コーナーがあって、子供向けのゲーム機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなものの上に並んで腰を下ろし、二人で雨ふりを眺めた。
  「何か話してよ」と緑が言った。「話があるんでしょ、あなた?」
  「あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんやりしてたんだ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ」と僕は言った。「でも君と会えなくなってよくわかったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだってね。君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」
  「でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私がこのニヶ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを?」
  「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。「君は僕のことを頭にきていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ」
  「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まってるでしょう?だって私あなたのこと好きだって言ったでしょう?私そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃなくなったりしないわよ。そんなこともわかんないの?」
  「それはもちろんそうだけど――」
  「そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だって久し振りに会ったっていうのにあなたはボオッとして他の女の人のことを考えて私のことなんか見ようともしないんだもの。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなたと少し離れていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。いろんなことをはっきりさせるためにも」
  「いろんなことって?」
  「私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだんだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然だし具合わるいと思わない?もちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多少わかままで偏狭でファシストだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好きになった人だしね。でもね、あなたってなんだか特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感じするの。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに自分でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直に相談したの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もしあなたと会うなら俺と別れろって」
  「それでどうしたの?」
  「彼と別れたよ、さっぱりと」と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆うようにしてマッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。
  「どうして?」
  「どうして?」と緑は怒鳴った。「あなた頭おかしいんじゃないの?英語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから」
  僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうまく出てこなかった。
  緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?私だってこのニヶ月本当に辛かったんだから」
  我々はゲーム?コーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、唇を求めあった。彼女の髪にも、ジーンズのジャケットの襟にも雨の匂いがした。女の子の体ってなんてやわらかくて温かいんだろうと僕は思った。ジャケット越しに僕は彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間に触れたような気がした。
  「あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そして別れたの」と緑は言った。
  「君のこと大好きだよ」と僕は言った。「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないんだ」
  「その人のことで?」
  僕は肯いた。
  「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?」
  「一年前に一度だけね」
  「それから会わなかったの?」
  「二回会ったよ。でもやってない」と僕は言った。
  「それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?」
  「僕にはなんとも言えない」と僕は言った。「とても事情が混み入ってるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当にどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間として責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」
  「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と緑は僕の首に頬を押し付けて言った。「そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好きだってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってするわよ。私多少むちゃくちゃなところあるけど正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって良いかたちしているし、料理もうまいし、お父さんの遺産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思わない?あなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ」
  「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」
  「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるのね?」
  「もちろんそう思ってるよ」
  緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼してるから」と彼女は言った。「でお私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?」
  「よくわかる」
  「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」
  僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
  「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。
  「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」
  「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ」
  僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィンド?ブレーカーを暗い色に染めた。
  「そろそろ屋根のあるところに行かない?」と僕は言った。
  「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」
  「まったく」
  「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言った。「ああ気持良かった」
  僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパートまで行った。緑はすぐに僕にシャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバスローブを貸してくれ、自分はポロシャツとスカートに着がえた。我々は台所のテーブルでコーヒーを飲んだ。
  「あなたのこと話してよ」と緑は言った。
  「僕のどんなこと?」
  「そうねえ……どんなものが嫌い?」
  「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」
  「他には?」
  「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」
  「他には?」
  僕は首を振った。「他にはとくに思いつかないね」
  「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく短いスカートはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なことあったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃんとあらためるから」
  「別に何もないよ」と僕は少し考えてからそう言って首を振った。「何もない」
  「本当?」
  「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、何でも好きだよ」
  「本当にこのままでいいの?」
  「どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ」
  「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
  「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。
  「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
  僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞きながら布団の中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固さの好みに至るまでのありとあらゆる話をした。
  「雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら?」と緑が質問した。
  「知らない」と僕は言った。「巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかやってるんじゃないかな。蟻ってよく働くからさ」
  「そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままなの?」
  「知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つまり猿なんかに比べてさ」
  「あなた意外にいろんなこと知らないのね」と緑は言った。「ワタナベ君って、世の中のことはたいてい知ってるのかと思ってたわ」
  「世界は広い」と僕は言った。
  「山は高く、海は深い」と緑は言った。そしてバスローブの裾から手を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息を呑んだ。「ねえ、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌だ」
  「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。
  「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。「大丈夫よ。安心しなさい。これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい?」
  「好きにしていいよ」と僕は言った。
  緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮をひっぱったり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと息をついた。「でも私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」
  「ありがとう」と僕は素直に礼を言った。
  「でもワタナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」
  「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」
  「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃってから考えるけどな」
  「本当にそうする?」
  「嘘よ」と緑は小さな声で言った。「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところ好きなの。本当に本当に好きなのよ」
  「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。
  「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」
  「考えてないよ」と僕は嘘をついた。
  「本当?」
  「本当だよ」
  「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」
  「考えられないよ」と僕は言った。
  「私の胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。
  「さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなことやると刺激が強すぎる」
  緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先にあてた。「ここに出していいからね」
  「でも汚れちゃうよ」
  「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑は泣きそうな声で言った。「そんなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ。気になるんなら新しいの買ってプレゼントしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの?」
  「まさか」と僕は言った。
  「じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して」
  僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。「ずいぶんいっぱい出したのね」と彼女は感心したように言った。
  「多すぎたかな?」
  「いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ」と緑が笑いながら言って僕にキスした。
  夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕らは台所のテーブルでビールを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを食べた。
  「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と緑は言った。「そしたら私がやさしく出してあげるから」
  「ありがとう」と僕は礼を言った。
  「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそういうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が浮気しないようにいろんな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。楽しみ?」
  「楽しみだね」と僕は言った。
  緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広げてみたが、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみたところで何も理解できなかった。僕はそんなわけのわからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いったい自分はこれから先どうなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変っていくんだろうと考えつづけた。時折、僕のまわりで世界がどきどきと脈を打っているように感じられた。僕は深いため息をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまったく後悔していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、まったく同じことをするだろうと確信していた。やはり雨の屋上で緑をしっかり抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で射精に導かれることになるだろう。それについては何の疑問もなかった。僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女となら二人でうまくやっていけるだろうと思った。そして緑は彼女自身言っていたように血のかよった生身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたのだ。僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったのだ。僕のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろう?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはずなのだ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。
  問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議なかたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。
  僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書いた。「こういう手紙をレイコさんに書かなくてはならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。
  「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう?僕にはレイコさんしか相談できる相手がいないのです」
  僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。
  レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。
  「前略。
  まず良いニュース。
  直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもしれないということです。
  次にあなたのこと。
  そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。
  私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実さのひとつのかたちです。
  第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して下さい。
  第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはならないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておいて下さい。
  第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょう?
  私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありません。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖にボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。
  もちろん私はあなたと直子がハッピー?エンディングを迎えられなかったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
  私は毎日誰に聴かせるともなくギターを弾いています。これもなんだかつまらないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながらギターを弾きたい。
  ではそれまで。
  六月十七日
  石田鈴子       」

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