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挪威的森林(ノルウェイの森)

作者:村上春樹   发表时间:2024-11-15 01:18

第七章


  翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メートル?プールを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたし、食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べものをするために文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。
  「どこに行くの?」と彼女が僕に訊いた。
  「図書室」と僕は言った。
  「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」
  「さっき食べたよ」
  「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」
  結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレーを食べ、僕はコーヒーを飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のチョッキを着て、金の細いネックレスをかけ、ディズニー?ワォッチをつけていた。そして実においしいそうにカレーを食べ、水を三杯飲んだ。
  「ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話したのよ」と緑は言った。
  「何か用事でもあったの?」
  「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」
  「ふうむ」と僕は言った。
  「『ふうむ』って何よいったい、それ?」
  「別に何でもないよ、ただのあいづちだよ」と僕は言った。「どう、最近火事は起きてない?」
  「うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、そのわりに煙がいっばい出てリアリティーがあったし、ああいうのいいわよ」緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。「ねえ、ワタナベ君、どうしたの?あなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし」
  「旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない」
  「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」
  「ふうむ」と僕は言った。
  「ねえワタナベ君、午後の授業あるの?」
  「ドイツ語と宗教学」
  「それすっぼかせない?」
  「ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある」
  「それ何時に終わる?」
  「二時」
  「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?」
  「昼の二時から?」と僕は訊いた。
  「たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているし、私と一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。ね、いいでしょう?」
  「いいよ、じゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。「二時に文学部の中庭で待っているよ」
  ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出て、紀伊国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってワォッカ?トニックを二杯ずつ飲んだ。
  「ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女は言った。
  「そんなにお昼から飲んでるの?」
  「たまによ」と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。「たまに世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ?トニック飲むのよ」
  「世の中が辛いの?」
  「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」
  「たとえばどんなこと?」
  「家のこと、恋人のこと、生理不順のことーーいろいろよね」
  「もう一杯飲めば?」
  「もちろんよ」
  僕は手をあげてウェイターを呼び、ウォッカ?トニックを二杯注文した。
  「ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう」と緑は言った。「いろいろと考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」
  「それはよかった」
  「『それはよかった』」とまた緑はくりかえした。「あなたって本当に変ったしゃべり方するわよねえ」
  「そうかなあ」と僕は言った。
  「それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の順番を組みかえることができたとしたら、あれをファースト?キスにするわね、絶対。そして残りの人生をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう?五十八歳になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わない」
  「素敵だろうね」と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。
  「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」と僕は少し考えてから言った。「ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思える」
  緑はカウンターに片肘をついて僕の顔を見つめた。「ジム?モリソンの歌にたしかそういうのあったわよね」
  「People are strange when you are a stranger」
  「ピース」と緑は言った。
  「ピース」と僕も言った。
  「私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ」と緑はカンタンーに片肘をついたまま言った
  「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」
  「それも悪くないな」と僕は笑って言った。
  「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴らしいと思わない?私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だからもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわって」
  僕は笑って三杯めのウォッカ?トニックを飲み干した。
  「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?」と緑は言った。
  「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。
  「いいのよべつに、欲しくなくだって」緑はピスタチオを食べながら言った。「私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ」
  「まあそうかもしれないな」
  「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったって、世界はロバのウンコよ。ねえ、この固いのあげる」緑は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。
  「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこうだってね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ」
  「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」
  「じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつけてくる?他の人たちと同じように」
  「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」
  「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ知ってる?世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやってるのよ」
  「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は?」
  緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。
  「私のこともっと知りたい?」
  「興味はあるね、いささか」
  「ねえ、私は『私のこともっと知りたい?』って質問したのよ。そんな答えっていくらなんでもひどいと思わない?」
  「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。
  「本当に?」
  「本当に」
  「目をそむけたくなっても?」
  「そんなにひどいの?」
  「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。「もう一杯ほしい」
  僕はウェイターを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はカウタンーに頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス?モンクの弾く「ハニサックル?ローズ」を聴いていた。店の中には他に五、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。
  「今度の日曜日、あなた暇?」と緑が僕に訊いた。
  「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からのアルバイトを別にすればね」
  「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?」
  「いいよ」
  「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからないけど。かまわない?」
  「どうぞ。かまわないよ。」と僕は言った。
  「ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?」
  「さあね、想像もつかないね」
  「広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず」と緑は言った。「すごく気持がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、となりにはあなたが寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいに、そっと」
  「ふむ」と僕は言った。
  「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我に返って『だめよ、ワタナベ君!』って叫ぶの。『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人人がいるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」
  「やめるよ、僕は」
  「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言った。「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、『駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」
  「そんなに大きくないよ。普通だよ」
  「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」
  「それがつまり君が今やりたいことなの?」
  「そうよ」
  「やれやれ」と僕は言った。
  全部で五杯ずつウォッカ?トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円札をだして勘定を払った。
  「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言った。「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら話はべつだけど」
  「いや、そうは思わないけど」
  「それに入れさせてもあげなかったし」
  「固くて大きいから」と僕は言った。
  「そう」と緑は言った。「固くて大きいから」
  緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいといったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。
  「残念だわ、私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。
  緑と二人でウィンドウ?ジョッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。
  「君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。
  緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ?」
  「たしかに」と僕は言った。
  五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送り、そこで別れた。
  「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訪ねた。
  「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。
  「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」
  「なんでそんなことするの?」
  「変質的な海賊なのよ、それ」
  「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。
  「そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの」
  「それで?」
  「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」
  「それが君のいちばんやりたいことなの?」
  「そう」
  「やれやれ」と僕は首を振った。
  日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタナベ、女が来てるぞ!とどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのスカートをはいてロビーの椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。
  「早すぎたかしら、私?」と緑は言った。「ワタナベ君、今起きたばかりみたいじゃない」
  「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれる?」と僕は言った。
  「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」
  「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるだもの。見るにきまってるよ、みんな」
  「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵なレース飾りがついてるの。ひらひらっと」
  「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブルーのボタン?ダウン?シャツの上にグレーのツイードの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。
  「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけ?シコシコって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
  「たぶんね」
  「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」
  「まあそうだろね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃないかな」
  「スエズ運河」
  「たとえば、だよ」
  「つまり特定の女の子のことを考えるのね?」
  「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの?」と僕は言った。「どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ?」
  「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」
  「まあまともな考えだね」
  「でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスターべーションするとき特定の女の子のこと考えるの?」
  「考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあきらめて答えた。
  「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒らないから」
  「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。
  「どうして?私が魅力的じゃないから?」
  「違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」
  「じゃあどうして私のこと考えないの?」
  「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことにまきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」
  「他に想い浮かべるべき人がいるから」
  「まあそういうことだよね」と僕は言った。
  「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。「私、あなたのそういうところ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスターベーションするときちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むのよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか」
  僕はため息をついた。
  「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れなければあとは何してもいいわよ、何考えても」
  「どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」と僕は言った。
  「考えておいてくれる?」
  「考えておくよ」
  「あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ?男の人が何を考えて、その体のしくみがどうなってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃなくて、いわばケース?スタディーとして」
  「ケース?スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。
  「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不機嫌になったり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言うのよ。フェラチオだってなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」
  「ふむ」と僕は言った。
  「あなたフェラチオされるの嫌?」
  「嫌じゃないよ、べつに」
  「どちらかというと好き?」
  「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。「でもその話また今度にしない?今日はとても気持の良い日曜の朝だし、マスターベーションとフェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人?」
  「ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラブ活動で知りあったの。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう?合同コンサートとか、そういうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワタナベ君?」
  「うん?」
  「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」
  「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。
  我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォームを着た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。緑はときどききゅっきゅっとスカートの裾をひっばって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。
  「ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。
  「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、電車の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」
  「残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。
  「ところでお茶の水に何があるの?」
  「まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから」
  日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダー?バッグのストラップを握り、右手で僕の手をとって、そんな学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。
  「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。
  「できると思うよ」と僕は言った。
  「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」
  「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」
  緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。「あなたって偉いのね」と彼女は言った。「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。仮定法だの微分だの化学記号だの、そんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視してやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら?」
  「無視してやってきた?」
  「ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、サイン、コサインだって全然わっかてないのよ」
  「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。
  「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。「知らないの?勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの」
  「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」
  「そういうのが何か役に立つのかしら?」
  「どうかな」と僕は言った。「まあある種のことはやりやすくなるだろね」
  「たとえばどんなことが?」
  「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」
  「それが何かの役に立つのかしら?」
  「それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最初にも言ったように」
  「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下りつづけた。「ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね」
  「そうかな?」
  「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたら、私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」
  「ふむ」と僕は言った。
  「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。
  「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」
  「理解できた?」
  「理解できるところもあったし、できないところもあった。『資本論』を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれど」
  「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっと理解できると思う?」
  「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。
  「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ベージから何ベージまで読んでこいってね。フォーク?ソングと社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって……なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ページで放りだしちゃたわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない?」
  「ふむ」と僕は言った。
  「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか?東インド会社と何か関係あるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」
  「信じられる」
  「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ!私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そうでしょ?」
  「そうだね」
  「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる?」
  「聞くよ」
  「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う?小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入っていたし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」
  僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの?」
  「六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで」と緑は言った。「でもこの大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン?コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」
  「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」
  「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」
  「ありうる」と僕は言った。
  「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員って見たことある?」
  「ないな」
  「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う?」
  「きわめて疑わしいね」
  「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」
  「ピース」と僕は言った。
  「ピース」と緑も言った。
  「我々は何処に向かっているんだろう、ところで?」と僕は訊いてみた。
  「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。私の番なの」
  「お父さん?」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったんじゃなかったの?」
  「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くだってわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから」
  「具合はどうなの?」
  「はっきり言って時間の問題ね」
  我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。
  「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる?二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」
  大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。
  緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。
  その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。
  緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。
  「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どう、今日は?」
  父親はもそもそと唇を動かした。<よくない>と彼は言った。しゃべるというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。<あたま>と彼は言った。
  「頭が痛いの?」と緑が訊いた。
  <そう>と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。
  「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」
  はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。
  「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませ、果物かフルーツ?ゼリーを食べたくないかと訊いた。<いらない>と父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うと<食べた>と彼は答えた。
  ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあって、そこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツ?ゼリーとキウリが三本。
  「キウリ?」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよ?まったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよ、私」
  「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。
  緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかに、キウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃない?なんで病人が生のキウリをかじるのよ?お父さん、キウリ食べたい?」
  <いらない>と父親は言った。
  緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TVの映りがわるくなって修理を呼んだとか、高井戸のおばさんが二、三日のうち一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対した<うん><うん>と返事をしているだけだった。
  「本当に何か食べたくない、お父さん?」
  <いらない>と父親は答えた。
  「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない?」
  「いらない」と僕も答えた。
  少しあとで緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファーに座って煙草一本吸った。TV室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。
  「ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。
  「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」
  「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」
  「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。
  緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
  「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人、悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけど、少くとも根は正直な人だし、お母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけど、でもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」
  緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。
  「あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一緒にここにいてくれる?」
  「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの」
  「日曜日はいつも何をしてるの?」
  「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」
  「ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょ?そのつきあっている人のこと」
  「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明できそうにないし」
  「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら?」
  「どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」
  「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」
  「ふむ」と僕は言った。
  「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコートとかシャルル?ジュールダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?」
  「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。
  「きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりするのよね。それからほら、変なものを入れさせたり、アクロバートみたいな格好をしたり、そういうところをポラロイド?カメラで撮ったりもするの」
  「楽しそうだな」
  「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしよう、あんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。『どう、私の体って凄いでしょ?あなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう?感じる?でも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」
  「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。
  「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私、ポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見にいかない?」
  「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」
  「本当?すごく楽しみ。SMのやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」
  「いいよ」
  「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる?」
  「さあ見当もつかないね」
  「あのね、セックス?シーンになるとんね、まわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。とても可愛いくって」
  病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は<ああ>とか<うん>とあいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックしたりしていた。
  十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくると、緑は「ねえ先生、どんな具合ですか?」と訊ねた。
  「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよな」と医者は言った。「手術の結果はあと二、三日経たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けばうまく行くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」
  「また頭開くんじゃないでしょうね?」
  「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かいスカートはいてるじゃないか」
  「素敵でしょ?」
  「でも階段上るときどうするんだ、それ?」と医者が質問した。
  「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすくす笑った。
  「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」
  回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュ?スープとフルーツとやわらかく煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶしてゼリー状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こし、スプーンでスープをすくって飲ませた。父親は五、六口飲んでから顔をそむけるようにして、<いらない>と言った。
  「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた」と緑は言った。
  父親は<あとで>と言った。
  「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしっこはまだ大丈夫?」
  <ああ>と父親は答えた。
  「ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない?」と緑が言った。
  いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだに、緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリーム?コロッケとポテト?サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。
  「ワタナベ君、あまりおなかすいてないの?」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。
  「うん、あまりね」と僕は言った。
  「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんなそうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦痛、疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」
  「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。
  「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、するとみんなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺロッと食べちゃうと『ミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ』って言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見て『ミドリちゃんは元気でいいわねえ』だもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしくみってものがわかんないかしら、あの人たち?口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。なおる見こみもないのに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわして、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭がだんだんおかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見ててごらんなさいよ、たまらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏しくなってくるし、私だってあと三年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだってこんな状態じゃ結婚式だってあげられないし」
  「君は週に何日くらいここに来てるの?」と僕は訊いてみた。
  「四日くらいね」と緑は言った。「ここは一応完全看護がたてまえなんだけれど実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人たち本当によくやってくれるわよ、でも数は足りないし、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどしても家族がつかざるを得ないのよ、
  ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあいまをぬって私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来て、私が四日くらい。そしてその寸暇を利用してデートしてるの、私たち。過密なスケジュールよ」
  「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?」
  「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラスチックの湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。
  「二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と僕は言った。「僕がしばらくお父さんのこと見ててやるから」
  「どうして?」
  「少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかないで頭の中を空
  っぽにしてさ」
  緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「そうね。そうかもしれないわね。でもあなたやり方わかる?世話のしかた」
  「見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ませて、汗を拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その他わからないことは看護婦さんに訊く」
  「それだけわかってりゃまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。「ただね、あの人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわからないことを。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね」
  「大丈夫だよ」と僕は言った。
  病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけになって、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはしなかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕には見当もつかなった。
  緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と僕は「演劇史Ⅱ」で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。
  しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだった。耳を顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣りの奥さんと話をした。彼女は僕のことを緑の恋人だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれた。
  「あの子、本当に良い子よ」彼女は言った。「とてもよくお父さんの面倒をみてるし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おまけに綺麗だし。あなた、大事にしなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから」
  「大事にします」と僕は適当に答えておいた。
  「うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やしないわよ。休みになるとサーフィンだ、デートだ、なんだかんだってどこかに遊びに行っちゃってね。ひどいもんよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポイだもん」
  一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て行った。病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部屋の中にたっぷりと入りこんでいて、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺のテーブルの上には白と黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと人々に教えていた。病室には手つかずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っていた。看護婦たちはあいかわらずコツコツという音を立てて廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会話をかわしていた。彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人ともぐっすり眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んでから姿を消した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新聞も何にもなかった。カレンダーが壁にかかっているだけだった。
  僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のことを考えた。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の前で裸になったりしたのだろう?あのとき直子は夢遊状態にあったのだろうか?それともあれは僕の幻想にすぎなかったのだろうか?時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が本当にあったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当にあったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子の体も月の光も。
  緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断した。僕ティッシュ?ペーパーで痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。
  「水を飲みますか?」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さしで少しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。
  「もっと飲みますか?」と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕は耳を寄せてみた。<もういい>と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと小さくなっていた。
  「何か食べませんか?腹減ったでしょうう?」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを起こし、野菜のゼリーと煮魚をスプーンでかわりばんこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどうするかと訊くと彼は<いらない>と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、食器を廊下に出しておいた。
  「うまかったですか?」と僕は訊いてみた。
  <まずい>と彼は言った。
  「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑って言った。父親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目でじっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑といるときより僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えたからだ。あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が有難かった。
  「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。「秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そういう日にこんな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、疲れないですむし。混んだところ行ったって疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっせとアイロンをかけます。アイロンかけるの嫌いじゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいいもんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だらけになっちゃったりしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね、残念ですね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。
  でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくっていいです。日曜日ったって他にやること何もないんですから。
  明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさんと一緒なんです。『演劇史Ⅱ』で、今はエウリビデスをやっています。エウリビデス知ってますか?昔のギリシャ人で、アイスキュロス、ソフォクレスならんでギリシャ悲劇のビッグ?スリーと言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだということになっていますが、これには異説もあります。これがエウリビデスです。僕はソフォクレスの方が好きですけどね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。
  彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがとれなくなってしまうことなんです。わかりますか?いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんです。そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると思います?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス?エクス?マキナと呼ばれています。エウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス?エクス?マキナが出てきて、そのあたりでエウリビデスの評価がわかれるわけです。
  しかし現実の世界にこういうデウウ?エクス?マキナというのがあったとしたら、これは楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると降りてきて全部処理してくれるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあとにかくこれが『演劇史Ⅱ』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉強してます」
  僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかその目から判断できなかった。
  「ピース」と僕は言った。
  それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひどく後悔したが、後悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べものがないかと物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス?ドロップと醤油があるだけだった。紙袋の中にキウリとグレープフルーツがあった。
  「腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。
  緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。そして皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。
  「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いいキウリですね。キウイなんかよりずっとまともな食いものです」
  僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持の良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガス?コンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。
  「水かジュース飲みますか?」と僕は訊いてみた。
  <キウリ>と彼は言った。
  僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか?」
  彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこんだ。
  <うまい>と彼は言った。
  「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」
  結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲みたがったので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで少しすると小便したいと言ったので、僕はベットの下からしびんを出し、その口をベニスの先にあててやった。僕は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。
  「気分どうですか?」と僕は訊いてみた。
  <すこし>と彼は言った。<アタマ>
  「頭が少し痛むんですか?」
  そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。
  「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないからどういうもんだかよくわからないけれど」
  <キップ>と彼は言った。
  「切符?なんの切符ですか?」
  <ミドリ>と彼は言った。<キップ>
  何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っていた。それから<タノム>と言った。「頼む」ということらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕には見当もつかなかった。
  <ウエノ>と彼は言った。<ミドリ>
  「上野駅ですか?」
  彼は小さく肯いた。
  「切符?緑?頼む?上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからなかった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方にのばした。そうするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、<タノム>とくりかえした。
  切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいですよ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなものを抱いていることに気づいた。
  少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊ねた。ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠っていた。
  緑は三時すぎに戻ってきた。
  「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。「あなたに言われたように、一人で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして」
  「どうだった?」
  「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」
  父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売機のコーヒーを買ってTV室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいないあいだに起った出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。
  「ワタナベ君、あなたってすごいわね」と緑は感心して言った。「あの人ものを食べなくてそれでみんなすごく苦労してるのに、キウリまで食べさせちゃうんだもの。信じられないわね、もう」
  「よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃないかな」と僕は言った。
  「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら?」
  「まさか」と言って僕は笑った。「逆のことを言う人間はいっばいいるけれどね」
  「お父さんのことどう思った?」
  「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さそうな人だっていう気はしたね」
  「おとなしかった?」
  「とても」
  「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」と緑は頭を振りながら言った。「ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私にコップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言ったの。この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわからないけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さんのときもそうだったわ。お母さんが私に向ってなんて言ったと思う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのって、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷立たせて、それであることないこと言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情なくなっちゃうの」
  「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからいことを言ったのを思いだした。
  「切符、上野駅?」と緑は言った。「なんのことかしら?よくわからないわね」
  「それから<頼む><ミドリ>って」
  「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?」
  「あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」と僕は言った。「とにかくその四つの言葉の順番がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあたることない?」
  「上野駅……」と言って緑は考えこんだ。「上野駅で思いだせるといえば私が二回家出したことね。小学校三年のときと五年のときで、どちらのときも上野から電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そこに行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、私にいろんな話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたことないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したのなんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる?うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」
  「まさか」と僕は唖然として言った。
  「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへん瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やってるんだ、いったい?』って訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話」緑はそう言って笑った。
  「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないのね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そういう話を聞いているとね、この五十年か六十年くらい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起らなかったような気になってくるの。二?二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうのあったっけなあっていう感じなの。おかしいでしょう?
  そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうなのかなあって思ったわよ」
  「それが上野駅の思い出話?」
  「そうよ」と緑は言った。「ワタナベ君は家出したことある?」
  「ないね」
  「どうして?」
  「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」
  「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。
  「そうかな」と僕は言った。
  「でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったんだと思うわよ」
  「本当?」
  「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの?」
  「よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんとやるから大丈夫ですって言っといたけど」
  「じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?」緑はそう言って真剣な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。
  「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何がなんだかそのときよくわからなかったし――」
  「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あなたってそいうところすごく可愛いのね」
  コーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百五歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は言った。
  四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕はTV室のソファーに座ってサッカー中継を少し見た。
  「そろそろ行くよ」と五時に僕は言った。それから父親に向かって「今からアルバイト行かなきゃならないんです」と説明した。「六時から十時半まで新宿でレコード売るんです」
  彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。
  「ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感謝してるのよ。ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。
  「それほどのことは何もしてないよ」と僕は言った。「でももし僕で役に立つのならまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」
  「本当?」
  「どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくればキウリも食べられる」
  緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いていた。
  「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるようにして言った。
  「ポルノ映画?」
  「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっばいいやらしい話をするの」
  「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。
  「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒飲んでぐでんぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝るの」
  「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。「僕がやろうとすると、君が拒否するんだろう?」
  「ふふん」と彼女は言った。
  「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日に。一緒にここに来よう」
  「もう少し長いスカートはいて?」
  「そう」と僕は言った。
  でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜日の朝に亡くなってしまったからだ。
  その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきていることを教えるブザーが鳴って、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織ってロビーに降り、電話をとった。冷たい雨が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみた。
  「ありがとう、大丈夫よ」と緑は言った。「私たちお葬式に馴れてるの。ただあなたに知せたかっただけなの」
  彼女はため息のようなものをついた。
  「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたくないの」
  「わかった」と僕は言った。
  「本当にポルノ映画につれてってくれる?」
  「もちろん」
  「すごくいやらしいやつよ」
  「ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを」
  「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。
  しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学の教室でも会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕への伝言メモがないかと気にして見ていたのだが、僕への電話はただの一本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみたのだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。そしてウィスキーを飲んで、歯を磨いて寝た。
  *
  日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父親のこと書いた。僕はその同じクラスの女の子の父親の見舞いに行って余ったキウリをかじった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局その五日後の朝に彼は亡くなってしまった。僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。
  朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレイコさんと鳥小屋のことを考えると僕は書いた。孔雀や鴉やオウムや七面鳥、そしてウサギのことを。雨の朝に君たちが着ていたフードつきの黄色い雨合羽のことも覚えています。あたたかいベットの中で君のことを考えているのはとても気持の良いものです。まるで僕のとなりに君がいて、体を丸めてぐっすり眠っているような気がします。そしてそれがもし本当だったらどんなに素敵だろうと思います。
  ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベットから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく一人言を言うそうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってるのでしょう。
  君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での生活はもっとひどいことになっていたと思う。朝ベットの中で君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかなくちゃとと僕は思うのです。君がそこできちんとやっているように僕もここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。
  でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませてしまって、今は部屋で手紙を書いています。この手紙を書き終えて切手を貼ってポストに入れてしまえば夕方まで何もありません。日曜には勉強もしません。僕は平日の講義のあいまに図書室でかなりしっかりと勉強しているので、日曜日には何もすることがないのです。日曜日の午後は静かで平和で、そして孤独です。
  僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京にいた頃の日曜日に二人で歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみることもあります。君が着ていた服なんかもずいぶんはっきりと思いだせます。日曜日の午後には僕は本当にいろんなことを思いだすのです。
  レイコさんによろしく。僕は夜になると彼女のギターがとてもなつかしくなります。
  僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メートルほど離れたところにあるポストに入れ、近くのパン屋で玉子のサンドイッチとコーラを買って、公園のベンチに座って昼飯がわりにそれを食べた。公園では少年野球をやっていたので、僕は暇つぶしにそれを見ていた。空は秋の深まりとともにますます青く高くなり、ふと見あげると二本の飛行機雲が電車の線路みたいに平行にまっすぐ西に進んでいくのが見えた。僕の近くに転がってきたファウル?ボールを投げ返してやると子供たちは帽子をとってありがとうございますと言った。大方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゲームだった。
  午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中できなくなると天井を眺めて緑のことを思った。そしてあの父親は本当に僕に緑のことをよろしく頼むと言おうとしたのだろうかと考えてみた。でももちろん彼が本当に何を言いたかったかということは僕には知りようもなかった。たぶん彼は僕を他の誰かと間違えていたのだろう。いずれにせよと冷たい雨の降る金曜日の朝に彼は死んでしまったし、本当はどうだったのかたしかめようもなくなってしまった。おそらく死ぬときの彼はもっと小さく縮んでいたのだろうと僕は想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってしまったのだ。彼があとに残したものといえば、あまりぱっとしない商店街の中のあまりぱっとしない本屋と二人の――少くともそのうちの一人はいささか風変りな――娘だけだった。それはいったいどのような人生だったんだろう、と僕は思った。彼は病院のベットの上で、切り裂かれて混濁した頭を抱え、いったいどんな思いで僕を見ていたのだろう?
  そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない気持になってきたので、僕は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新宿に出て街を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の街は僕をホッとさせてくれた。僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋書店でフォークナーの『八月の光』を買い、なるべく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってオーネット?コールマンだのパド?パウエルだののレコードを聴きながら熱くて濃くてまずいコーヒーうを飲み、買ったばかりの本を読んだ。五時半になると僕は本を閉じて外に出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜日をいったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思った。「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言ってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。

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